手 術 の 権 利

モーリス・ルヴェル

「どうぞおかけください、先生。お待たせして申し訳ありません ・・・」
 医師は首をふりながら席につくのをことわった。
 彼はごく小柄の痩せた男で、きゃしゃな手足をしていた。顔色は青白く、くたびれた目を大きく開き、くすんだ色の髭がまだらに生えて痩せこけた頬が見えた。頼りない青年の、あるいは病人の髭だった。彼は全身黒い服を着ていた。つやのない黒色は着古して肱のところや縫い目が白くなっていた。服は大き過ぎて彼は一層小さく病弱に見え、両手の半分くらいまで袖に隠れてしまい、貧弱な女子供の手のようなおぼつかなさが感じられた。
「どうかなさったんですか?」
 声を震わせながら、そしてほとんど聞き取れないくらい小さな声で医師は答えた。
「署長さん、私を逮捕してほしいんです。」
 署長は問い返そうとして口を開いたが、彼はくり返した。
「えぇ、そうです。逮捕してほしいんです。」
 そしてこの言葉で気が抜けそうだった気持が急に掻きたてられたように、自然な身振りとしっかりした声で彼は語りはじめた。


 ご存知のとおり、私はここで開業して二年になります。あらゆる状況からして善良な人間の行いをしていたと思います。必要であればいつでも出かけていって貧しい人々の手当をしました。私は時間も苦労も決して厭いませんでした。私がどのようないきさつで現在に至ったかについては恐らく問題にされないかもしれませんが、これから事件を告白する前にあなたにお話ししておく必要があると思うのです。
 父が死んだとき私は十四歳でした。母ひとり子ひとりで、収入の道もなく、家に残ったのは数百フランの紙幣しかありませんでした。私はすぐに働きに出て、商売を学び、生活費を稼ぐ必要があったのですが、母は私を中学校から離そうとは望みませんでした。そこで私は学業を修め、私の素質や好みを無視して自動的に医学の道に進むように決められたのです。・・・ なぜなら私は医者の息子だったからです。それから二十五歳で私は修了証書を手に入れ、しかしポケットの中には一銭もありませんでした。資格を取ることはとても素晴らしい、・・・ さらにそれを生かす方法があればなおさらなのです!
 それでも私は意気を喪失しませんでした。あちこち金策に走り、いくばくかの備品を買うことができました。返済はまとめて一つか二つの期限を設けました。私はこの場所に開業したのです。

 私は幻影に満たされていました。六ヶ月経つと愕然となりました。一生懸命稼いだわずかな金で食べなければなりませんでした。そしてその稼いだとか稼がなかったとかいう額と言ったら ・・・!
 それから私の母と私にとって恐ろしい生活が始まりました。でもそうした生活はあえて人に向かって大声でわめくものではありません。職業によっては惨めであることなどありえないと思われているものもあります。治療費の請求をあまり早く出しすぎたせいで私は二・三人の患者を失いました。どうすればいいんでしょう?二日前からただのパンしか食べていない時に、あるいは返済期限が近づくのに身ぶるいして「百フラン請求できる ・・・ それを要求しただけだ」と思ったのです。とにかく私は自分にこう言いました。
「頑張るんだ。いずれいい日が来るだろう。」
 えぇ、そうです。そうしていくうちに患者の数は減っていきました。時には母に少しでも大きなパンをあげるために私は午後の二時から三時に帰宅して、友人と昼食を済ませたからと言ったりしました。そして借金はどんどん増えて、増えて!・・・ 自殺してしまおうかという考えが瞬時に頭をかすめました。でもそれも私には高くつきました。死ぬためのわずかな練炭さえも買えない日が多かったのです。

 勇気とか活力には限界があります。そして私はそれを通り越していました。ある晩、扉をたたく人がいました。開業したての医者でなければ呼び鈴で寝床から飛び起こされる喜びはわからないでしょう。
 私は急いで服を着て病人の枕元に赴きました。そばには奥さんと二人の子供と世話係の女がいました。皆うろたえていました。病人は急に苦しみだし、嘔吐をして、しゃっくりをしていたのです。診断を下すのにそれほど多くの時間は要りませんでした。虫垂炎です。私はそのことを奥さんに言いました。彼女は訊ねました。
「手術しなければいけませんか?」
 病状は急激でしかも重症に思えたので、一般的に従う手段とは反対に、しかも発作がおさまるのを待つべきなのに、私は答えました。
「えぇ。」
 彼女はいつなのかと訊ねました。
「できるだけ早く。明日の午前中にも。」

 ここまでの私の行動はごく正当なものでした。しかしひとたび《手術》という言葉を発した途端に、ある考えが私の目の前に飛び出し、もはや頭から離れませんでした。
 私は周囲を見回しました。病人の部屋はそれまで注意を払いませんでしたが、上品でむしろ贅沢なものでした。
 開業以来、富裕な家に往診に呼ばれたのはここが最初でした。私がまず言おうとしたのは「外科医を呼びなさい」でした。
 しかしその言葉は口から出ませんでした。なぜならそれと同時にこう自答したからです。
「馬鹿だな!お前はこの幸運からもっと恩恵を受けられるんだ。この見知らぬ紳士から五十ルイか百ルイは稼げるぞ!手術が必要でないなら、お前はつまり夜間の往診で十フランもらっておしまいさ!だからお前が手術をするんだよ!」
 私は少しの間この横柄な声に対抗しようとしました。
「でも私は知らないんだ。・・・ 彼を死なせてしまうよ。・・・ 権利がないし ・・・」
 声は冷笑しました。
「権利がないって?お前は免許をもらったんだろ、それを何に使うんだね?免許にはあれを許可してこれはダメだとかは書いてないんだ。何を書こうと白紙なんだ。お前は良心というものを我慢としか考えていないが、俺こそが良心で、お前に向かって叫ぶんだ。やれよ!やれよ!パンのためだ!二日間お前は食っていない。年老いた母親は飢えで死にそうだ。半月もすれば家主はお前ら二人をたたき出すだろうよ。・・・」そしてこの忌むべき声は私の口から次のように言わせたのです。
「明朝、私が手術をします。」
 
 私はこの言葉を発しながら身ぶるいしたに違いありません。もし家族がちょっとでも反対を唱えるのなら私は譲歩したでしょう。もう一度言います。彼らが別の先生の名前を言ってくれるようにと願ったのです。でも何も言いませんでした。どうやらこの人たちに信頼されたようでした。・・・ 彼らは私に任せきっていました。・・・ 診療所に帰るや私は両手で頭を押さえて独言しました。「気違いざただ!これは犯罪だ!解剖などほとんど知らないくせに、執刀する権利を横取りして生身の人間を手術するなんて! ・・・ いや ・・・ いや ・・・ 金のためにそんなことしてはいけないのだ! ・・・」
 しかし先ほど私にのしかかった邪心は再び鼻先で笑いました。
「馬鹿!小心者!臆病者!」

 こうして声は一晩中ささやき続け、朝になると私の理性をひるがえらせていました。
「えぇ!その通りだ!俺はほんとに馬鹿だったよ!俺は権利があるんだ!免許状には医学博士の称号を与えるだけで、手術を禁ずることなど何も書いてないんだ!俺には権利がある!権利があるんだ! ・・・」
 そして私は熱中して医学書のページを急いで繰りました。あたかも怠慢な受験生が試験の一時間前にあわてて本を調べるように。私はページからページへと目を通して行きました。文章が目の前を跡を残さずに流れて行きました。図面や表題も次々と流れていきました。・・・
 朝の八時にこれまで売却や売約していなかった手術道具を取り出しました。鉗子がいくつか、メスが二本、開創器などです。そして出かけました。通りがかりにまだ医学生だった仲間の一人にクロロホルムを持ってきてくれるように頼み、患者のところに着きました。
 準備をするあいだ私は少し冷静さを保っていました。手術の部屋を布で被い、テーブルの上に防水の布をかけました。道具をちゃんと殺菌しました。しかしこれらの準備を時間をかけてやったことが手術の開始という決定的な瞬間を遅らせるためだったように思いました。そしてついに私は始めました。
 
 最初に切開をした瞬間から私の周囲がぐるぐる廻りはじめました。小動脈が見つからずいらいらし、鉗子でつかみ出せませんでした。人がやるのを傍から見ていたときにはごく簡単に見えたものが今や恐ろしいほどむずかしく思えました。私は切開し、摘出し、繋ぎ止めましたが、自分のやっていることを正確に見ることも知ることもできなかったのです。開腹部に手を入れたとき、私は頭の中がすっかり真っ白になっていました。冷静さを失わなければ最後までやりおおせたと今では思えるのですが、・・・ 後悔の念、道義上の責任を前にした恐怖、不安、恐ろしいほどの不安に捉えられ、一時間ものあいだの脈絡のない努力の末に、判断力は投げやりになり、この状況から逃れて独りになりたいと、はやる気持で頭はカッカとして、足腰はよれよれになり、ポッカリと開いた傷口をまるで自分の犯行を隠したほうがいいと言わんばかりに幾針も縫って閉じたのでした。

 患者をベッドに横たえて一段落すると、奥さんから封筒を渡されました。中には百フラン札が十枚入っていました。私は一瞬だけ喜びました。・・・ あぁ、たったの一瞬だけです!・・・ と言いますのも帰る道々、真相が頭をよぎって後悔にさいなまれたのです。昨夜じゅう私に話しつづけた声は押し黙りました。今となってはその声が何だったのかがわかりました!それは私の意識ではなく、私の中にうまく滑り込んだ泥棒であり、犯罪者なのです。それは惨めさそのもの、忌まわしい惨めさなのでした!今やそいつは悪事を行なったあと逃げ去る猫と同じように私から飛び出して行き、私だけが残ったのです。

 私の患者はその後二日間生き延びました。私にとっては二日間の苦痛と恐怖でした。時間を追うごとに私は自分の犯罪の進行について行かなければなりませんでした。そうです、私の犯罪の進行なのです。死に対するこの患者のあてのない抵抗を見て、もし彼がきちんと手術を受けていたら助かっただろうと確信したのです。
 すべてが終わったとき、この哀れな人たちから私を責める言葉が発せられることはありませんでした。
 もし彼らが知ったならば! ・・・

 でも私はもう耐えられません。この千フランは触れたら指が焼けてしまいそうです。もう欲しいとは思いません。・・・ おわかりでしょう。・・・ ほら、ここにあります。 
 たとえ法律が、手術をする権利について私に対して何も効力を及ぼせないとしても、少なくとも犯罪者として見なすしかないのです。それに五年間の教育で私に医者としての偽りの免許と、それによる権利を与えた人たちもまた犯罪者なのです。・・・ 私に対してあるいは彼らに対して、取り締まる法律がないというのなら作らなければなりません。・・・ 私を逮捕する必要があります。・・・ 私は冷酷に、承知の上で人を殺しました。・・・ この苦しみを心に抱いたまま、もはや自由に生きていくことは出来ないのです。・・・ 署長さん、私を逮捕してください。・・・(終)



原題: Le droit au couteau
短編集『地獄の扉』 Les Portes de l'enfer所収 (1910年刊)
作者: モーリス・ルヴェル Maurice Level
試訳: 写原祐二(2005年2月20日)


底本テキスト: Maurice Level《Les Portes de l'enfer》
Gallica, La Bibliothèque numérique, BNF #62652 ガリカ電子図書館
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-62652
Editions du Monde illustré, Paris; 1910 モンド・イリュストレ版
Le droit au couteau; P31〜41


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