奇 跡
モーリス・ルヴェル
それはゆっくりと表われた。まず彼は目の前に薄衣(ヴェール)のようなものがある感じがした。それから時おり、見るものに影がかかったように曇った。はじめのうちは少しも気にとめずにまぶたの上から目をこすって「光の強いところで働きすぎたせいだな」とつぶやいた。彼は少し目を休めたが薄衣は知らず知らずのうちに厚みを帯びてきて、影はより長く伸び、より大きく広がってきたので心配になった。
ある日の晩、夕食後、暖炉の薪が燃える火とランプが灯されていたのに部屋の中のすべてが薄暗く見えたので、彼は妻に言った。
「ランプの芯を上げてくれないか。この部屋は暗くてよく見えないよ。」
「なんですって?暗くて見えないって?ランプはちゃんと明るくしてますわ!」
彼は「あぁ!・・・」と言うと泣きはじめた。
驚いて彼女はたずねた。
「どうなさったの?」
彼は嘆息しながら答えた。
「僕は目が見えなくなるんだ!・・・」
涙ながらに彼はこの数ヶ月のことをとりとめなく語った。初めはまったく気にしなかったこと、それから気にしだしたこと、苦しんだこと、考えると恐ろしくなったこと、そしてもうすぐ彼には物がまったく見えなくなるだろう、もう二度と見ることができないだろうと、二度と・・・二度と!
そして医者のもとを次々と訪ねることになった。どの医者も症状の悪化は食い止められず、まもなく彼はまったく見えなくなった。
彼の妻と友人たちは注意深く彼を見守り、世話をしたが、彼は新しい生き方、つまり盲目の内面的で奥深い生活に身をまかせるように見えた。無表情な顔はしばしば微笑を見せたが、それはあきらめの心境とも言えた。
彼はパリを離れて田舎で暮らすことになった。田舎は快適だった。何時間も長椅子に身を沈めて物思いにふけり、かたわらで妻が音楽をかなでたり、彼のために詩を読んだりした。彼はしばしば妻に言った。
「僕は幸せだよ。・・・とても幸せだよ。」
そしてたまたま彼女がため息をつくのが聞こえたとき、彼は彼女の手を求め、やさしくつぶやくのだった。
「君はそこにいるんだね、僕のそばに・・・僕を愛する人たちだけが僕を見捨てないんだ。・・・僕は悔やんじゃいないよ。」
だが、彼の心の奥底には限りない寂しさが目覚めていた。彼はかつて見えた太陽を、彼があれほど好んでいた光を思い出しては、見えなくなった目を元に戻してくれる奇跡をわれ知らず夢想するのだった。
ある日のこと、彼は家の前に腰を下ろしていると、一人の年老いた農婦がそばに立ち止まって声をかけた。
「おや、ここでお過ごしですか。お具合は相変わらずなんですか?」
「えぇ、・・・今となってはおしまいですよ!・・・もう望みなしです。・・・」
「で、先生方は何とおっしゃってるんです?」
「何も・・・取るに足らないことばかり・・・」
「あぁ!」と老女は続けた。「あたしも先生を一人知ってますよ。立派な先生でね。治してもらえるかも知れませんよ!亡くなったあたしの亭主も目が見えなくなったんですけれど、その先生があのあたりではすごい評判だったんで見てもらいに行ったんです。そこでこう言われましたよ。『あんたには何の約束もできないんだが、・・・でも・・・とにかくやってみましょう!』うちの亭主が『あぁ!見えるようにしていただけたら、わっしの財産の半分を差し上げますよ!』と言うと、先生は『そんなものはいりません。とにかく入院しなさい。』という返事でした。それから二ヶ月たって、そうですよ、見えるようになったんです。うちの亭主は脳出血で急に死んでしまいましたけど、それでなければ!・・・あなたがそうだとは言いませんけども。・・・」
農婦の話を信じてその日の夜のうちに彼は出発した。救ってくれる人がそこにいるという確かな大きい希望に満たされて。
医師は時間をかけて診察したあと、他の人間に言ったように彼に言った。
「あなたには何の約束もできないんだが、・・・でもやってみましょう。ただし治療は長く、とても長くなるでしょうよ。」
彼は叫んだ。
「治るということなら何でもありませんよ!」
療養所に案内されたので彼はたずねた。
「妻は僕と一緒にいられるんですか?」
「いいえ。・・・とにかくあなたは二ヶ月間、おそらくそれ以上、暗い所にいなければならないので、奥さんが一緒にいるのは不可能です。さらにはあなたには静寂さ、つまり精神的に完全な休息が必要です。奥さんは毎週面会できますし、お望みなら毎日毎日のあなたの状態をお伝えいたしますよ。」
「わかりました。」と彼は答えると、にわかに極端な自己中心的な人間になった。すべてを忘れ、視覚を取り返したいという考えだけに集中した。
・・・三ヶ月たったとき、彼は密閉した部屋から出された。彼はまぶたを開かずにしばらくじっとしていた。治っていないという恐れから決定的な瞬間を遅らせたかったのだ。だが、彼は突然目を開くと大声で叫んだ。
「見えた!・・・見えるよ!・・・」
笑うのと泣くのが同時だった。祝福に満ちた日の光を貪欲なまなざしで眺めまわした。彼はまだぼんやりした物影としか見分けがつかなかった。彼にとっては闇夜の中でのほの暗く不確かな物像でしかなかったが、大声で言った。
「見えるよ!・・・外に行きたい!・・・連れてってください!・・・」
「あぁ!あわてちゃいかん!」と医師は彼の肩を軽くたたきながら言った。「これからは更に倍の治療を続けなくては!疲れないように・・・今日のところはこれで十分だ。」
彼はおとなしく連れ戻されるにまかせた。一晩中、彼はすばやく目を開いたり閉じたりして起きていて、常夜灯の光がわかるまでになった。
彼の歓喜が少しおさまると、最初に考えたのは妻に手紙を書いてやることだった。どんなに彼女は喜ぶことだろう!今となってはどんなに彼らは幸福なのだろう!・・・
それからもっとすてきな別の考えが思い浮かんだ!彼はここにあと数週間とどまらなければいけないのだから、まだ何も教えないようにしよう。そしてある晴れた日に、いきなり奇跡が起きたかのように彼女に向かってごく普通に語りかけるのだ。
「おや、そのスカートは良く似合うね!」とか、「その帽子はかわいらしいね!」とか。
彼女は彼が狂ったのだと思うだろう。そこで彼は飛びついてキスしてやるのだ。
「ちがうよ!僕は気狂いじゃない!見えるんだよ!」
彼は治療に当たってくれる医師や看護師たちにまるで子供みたいにはしゃいで何度も繰り返すのだった。
「いいですか!微笑んだり、しゃべったりしないでくださいよ。」
彼らは約束を守った。少しずつ彼は物の形がわかり、人の姿や顔つきまでも見分けられるようになった。もはや手探りはしなくなったし、動作もしっかりしてきた。その反対に少しずつ我慢しきれない気持が脹らんできた。これ以上じっとしていられなくなった。
「先生、僕はすっかり良くなりました。…退院させてください。…」
「いや、…まだだよ。」
「いつになるんですか?」
「もうじきだよ。あと数日は、台無しになる恐れがないようにしなくては。」
待っているあいだに、彼は熱に浮かされたようになって気持が異常な高ぶりを見せたので退院させることにした。彼は誰にもそのことを話さないようにと言い張った。馬車を頼んで一人で家に帰ることにしたのだ。
玄関のところで医師は彼に最後の忠告を与えた。
「毎週、忘れずに診察に来てくださいよ。それから日が当っているうちはくれぐれもサングラスを外さないように。太陽こそがあなたの大敵なんです。もしまた悪くなったりしたら・・・」
「えぇ、ご心配なく!」
彼は出発した。
六月の気持のいい朝だった。彼は帽子の庇を伸ばして光から目を守ろうとした。道は果てしなく続くように思えた。ようやく村の最初の家々が現れた。馬車は大通りと市の立つ広場を横切った。坂道の下で彼は御者に止まるように言った。
「ここでいいのかい?」
「へぇ、旦那。ほら。ぴったりお宅の前ですよ。」
急な坂の上に小さな家が建っていた。真っ白で、光を浴びて、庭の中ですでに燃え立つようだった。太陽は陽気に壁いっぱいに照らしつけていて、影さえも黄金の輝きだった。彼はとても感動して両脚が少しふるえた。真昼の暑さもじわじわと彼を包んでボーッとなった。彼は坂道をゆっくりと上った。鉄格子の柵のあいだに手を入れて掛け金をはずし、それから庭の砂利の音を立てないように爪先立ちで進んだ。とても暑かったので犬は小屋で眠っていて彼の足音が聞こえなかった。鎧戸が下ろされていた。彼は家の周りのすべてを初めて目にしたのだったが、それでも自分の家にいるという実感がした。彼はつぶやいた。
「あぁ!なんてきれいで楽しそうな小さな家なんだ!」
それから、家の中のすがすがしく気持がいい部屋を想像しながらつぶやいた。
「神様!なんて素晴らしい!なんて素晴らしい!」
彼はこう呼びかけるところだった。
「ジャンヌ、僕だよ!おいで!」
だが彼は思いとどまった。完璧に驚かそうとするなら、彼はまずドアをたたく。彼女が戸を開けたとき彼は両腕を差し出すのだ。その瞬間をどんなに何度も思い描いたことかを彼女に詳細に語ってやれるのだ。今こそ夢が現実になる。光と喜びにあふれた現実に!・・・夢と同じくらい・・・!
ベンチが家の外壁に寄せてちょうど窓の下に置いてあった。歩いてきたことと感情の高ぶりとで息苦しくなったので、そこに座って息を整えようとした。話し声が彼の耳に入った。鎧戸の中で誰かが話していて、笑っている。・・・彼は耳をそばだてた。・・・短い言葉を・・・二人で・・・。
「おや、誰と話しているんだろ?あぁ!友人のスーニズだ・・・何を話しているのかな?楽しそうだ。・・・わかっているのかな?・・・」
彼は身を起こして鎧戸の隙間から部屋の中に目をこらした。声は途切れてからまた聞こえた。妻が言っていた。
「ねぇ、お願いだからテーブルの用意をさせてよ。」
にわかに光の筋の中に二人の姿が見えた。彼女は腕にナプキンを持ったまま頭を反らせ、笑いながら友人の腕に抱かれて、首筋、目、口にキスをされるのにまかせ、深い口づけに身を揺るがせていた。
彼は唸り声をあげながら思わず身を引いた。周囲が回りだした。手を伸ばしてベンチに身を沈めた。
あぁ!恐ろしい、身の毛もよだつことだ!彼が目指して帰ってきたのはここだったのだ!盲目になるという責め苦を耐え抜いたのに、彼の妻と彼の親友がやっていることといったら!実に惨めだ!・・・彼の目の前で嘘をついていたのか、虚ろな目を馬鹿にしていたのか!
彼は恐ろしい様相で立ち上がり、拳骨を振り上げ、殺してやろうと思った。だが、戸口に身体をぶつけようとしたとき、足がすくむのを感じた。これまで彼が生きてきた影の中での二年間の静謐で動きのないイメージが頭をよぎった。そして彼の体力と気力が衰弱し、完治していないという感覚ゆえに、遅かれ早かれ視力は弱まり、また見えなくなってしまうという弱気に捕らえられた。従って彼は人から離れて独りで生きることになるのだろう。死ぬためにわが身を隠すけもののように!この恐ろしい考えに彼は身震いした。・・・いやだ!いやだ!こうじゃないんだ!・・・彼のことを思ってもいない彼らの眼差しを見ることになるのか?彼の肩先での裏切者たちの接吻を見過ごすのか?・・・絶対にいやだ!
いま彼に何も見ず何も聞こえずというそぶりで家に入っていくのに何の妨げがあるのか?彼は頭をたたいた。そうしたくはない!知らないふりなどできない。それなら?・・・
村のほうから正午を告げる十二の鐘が聞こえてきて、太陽は軌道の中天で燃えさかる光で照らしつけ、かまどのような熱気の中に彼は座っていた。
ゆっくりとした動作で彼は帽子を捨て、サングラスをはずした。そしてまぶたを大きく見開いて大空に顔を向け、両目を太陽に食わせるままにした。
まず、それは眩暈だった。それから顔の前に大きな赤い円盤が現れた。・・・彼に向かって何かが燃えるような感じがした。彼は瞬間的に抗おうとした。手をサングラスのほうに伸ばしたが・・・もう何も見えなかった。
憎しみの果てに静かで穏やかな夜が彼の上に広がっていた。重いうねりのけだるい波が夕方の引き潮で砂浜の黄金色の砂にしみ込んでいくように。 (終)
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