路上の出来事

モーリス・ルヴェル

 その放浪者は道ばたに腰をおろしていた。
 二日前から彼は照りつける太陽のもとを当てもなく歩き、夜は積み藁に身を寄せ、夜明けとともに再び流浪の道をたどっていた。家々の戸口では、彼の野卑な顔つきや伸び放題の髭、身にまとったボロ服を目にして、女たちはスカートを引いて身をすくめた。野良では、どんな仕事でもいいから何か手伝えないかと申し出てみたが頑なにことわられた。彼はあきらめの表情で頭を少し下げ、杖を持ちながら再び歩き出した。しかし何歩か離れたところで、人から見えなくなったのを確かめると、手の甲で頬を伝う大粒の涙をぬぐったのだった。

 このとき彼に激しい怒りが込み上げてきた。飢えた身体からの怒りだった。そして我知らず口走った。
「こんなの不公平だ!・・・ 神様なんていないんだ!」
 悪態をつきながら杖を振り上げ、地面をたたくと、何か光るものがはね上がり、澄んだ音をたてて落ちるのが見えた。
 彼は立ち上がり、砂ぼこりの中を探した。
「おや、これは運がいい!・・・」
 彼は拾い上げたばかりの一枚の金貨をつまんだまま、表裏を何度もひっくり返してながめた。このような幸運に出会うなど思いもせずにやった結果だった。
「一ルイ金貨だ!(*)・・・本物だ!・・・こういうものを持たなくなってしばらくたつな!腹一杯食べられるぞ、飲みたいだけ飲めるぞ、そしてちゃんとしたベッドに眠れるんだ。・・・これを持って道々働きながら行けば、大きな町までなんとかたどり着けるだろう。・・・そこでもうまく行くにちがいない。」
 彼は思い直した。この金貨は俺のもんじゃない!・・・だれかが見てたら?・・・彼は周りを見回した。誰もいなかった。彼は独りだった。道の上でまったくの独りだった。

 右手の黄金色の麦畑の遠く向こうのほうに、地平線を背景にしたような一つの村があった。農家の家々と教会の鐘楼が見えたのだ。陽気になって鼻歌を歌いながら彼は畑を横切って進んだ。麦の穂先が続いて彼に軽く触れていった。
 旅籠の前で彼は立ち止まった。
「こんにちは、奥さん!・・・」
 女主人は入口をふさぐようにして訊ねた。
「何か用かい?」
「食べ物がほしいんだ。」
「残り物はないよ。・・・あっちへ行きな。」
 彼はまばたきをした。
「あぁ!・・・施し物を頼んでるんじゃないよ!金で買うんだ!」
 彼は一ルイ金貨を手の上で放り上げてみせた。浮浪者の手の中に金貨があるのを見て女主人は驚いて夫を呼んだ。主人はうさんくさそうに男と金貨とを見つめてから訊ねた。
「どこで手に入れたんだね?」
「言ってどうなるもんでもないだろ。払うんだから。」
「いいとも!それじゃうちはあんたに食い物は売らないよ!」
 放浪者は少しの間動かなかったが、ポケットに金貨を入れると肩をすくめて立ち去った。
 旅籠の主人とその妻は彼を目で追った。
「またあっちで悪いことをやらかすかも。」
「お巡りに言いつけようか?」
 そこに客が一人やってきた。今のことを話したが、すでに尾ひれがついていた。
「恐そうな顔つきのみすぼらしい男が一ルイ金貨を出して食い物がほしいと言ったんだ。」
「おかしいね。」
「ポケットをジャラジャラさせていたんだ。ああした奴らは得体が知れないからね。・・・」

 五分間のうちにそのことは村中に知れわたった。子供たちは遠巻きににらみながら付きまとった。彼はくたびれた足取りで歩きながら、彼をじろじろ見る目つきにわからぬままに驚いた。
 以前ならば不安を感じたのだが、金貨を手に入れた今はそれを気にしなかった。
 パン屋の店で女主人がパンを並べていた。山型の大きなパンからキツネ色にこんがりと焼いたパイまであった。
「奥さん、こんにちは。丸いパンを一つほしいんだが。」
「あっちへ行きな。」
「おぉ!ここの人はまったく疑り深いねぇ!着てるものが汚いとか、恵んでほしいと手を出してるからじゃないだろうね。これで釣りをくれよ。」
 彼は一ルイ金貨を差し出した。
「あっちへ行きなって言ってるだろ!」
 彼は口をぽかんと開けて手を伸ばしたままだった。
「売りたくないって言うのか?あんたは・・・バカ野郎!」
 彼は頭を振ってそうつぶやいて店を出た。
 食料品屋でも肉屋でもハム屋でも至るところで返事は同じだった。
 彼は自問した。どうして俺に売ってくれないんだろ、払う金はあるというのに。もしかして贋金だからなのか?・・・
 もはや金貨を取り出そうとは思わなかった。上から手で押さえるとそれはポケットの奥底の硬くなったパン屑やタバコ滓に混じってごく小さく、身体になじんで温かく、輝かしく、やさしかった。

 夕暮になった。彼はまだ食べていなかった。大きな街道に出て歩きながら考えていた。
「二十フランも持っていて行き倒れなどになるもんか・・・」
 しかしながら彼には少しずつわかってきた。
「いや、俺は一ルイを持つような輩(やから)じゃないんだ。みじめな格好の俺のような手に金貨なんていかがわしく見えるんだろう。俺にどこで手に入れたかときくんだ。おそらく俺が森のどこかで人を襲って盗んだと思うんだろう。それで腹ぺこのこんな変な話になるんだ!」
 このように独り言をいいながら道を曲がると、一人の男が彼のほうに歩いてくるのが見えた。その男も足を引きずり、背中を丸めて歩いていた。衣服も使い古したものだ。古びた帽子をかぶっていて伸び放題の髭は砂埃で灰色になり、顔の日焼けを抑えていた。
 二人の放浪者は互いに立ち止まり、あたかもすべての苦労人同士が知り合いでもあるかのように手を差し出した。
「お前さん、どこへ行きなさる?」と金貨の男が言った。
「あそこの村に行って一晩過ごそうと思って。一緒に行こうか?」
「いや、俺は逆のほうさ。それに忠告しておくと引き返したほうがいいよ。・・・あそこはちっとも放浪者を歓迎してくれないんだ。俺はあそこから出て来たんだ。寝るのに納屋の端っこも見つからんだろうよ。」
「何とかなるさ!金(かね)があるんだ。」
「金があってもダメだよ。」
 彼は「金があるほうが余計に」と言いかけたが、黙った。もう一方の男が言った。
「農民たちはどこでも同じだよ。俺たちが恵んでほしいと言う限りは聞こえないふりをするんだ。でもこいつを見せたとたんに・・・」
 男は手で小銭を放り上げて笑い出した。
「それでも大した金じゃないよ!十七スーさ。でもこれで三日はもつよ!」
 男がしゃべっている間、食べていないほうの男はつぶやいた。
「十七スーで、二十フラン持ってる俺よりも金持ちだとは!あいつはパンを買い、枕用に麦藁の束を見つけられるんだ。」

 ある考えが彼に浮かんだ。
「いいかい、俺にいくらかくれないか。」
 すぐさま相手の男は小銭をつかんだ手を閉ざした。
「できないよ、ダメだ!俺はこれでちょうど町にたどり着けるくらいなんだ。・・・それからは・・・」
「パンを持ってないか?」
 男は荷袋を引き寄せて言った。
「ないよ。・・・じゃさよなら。」
 男は歩き出した。金貨の男が引きとめた。
「お前さんは、俺がこうして野たれ死ぬのを放って行ってしまうのか。」
「俺は何も持ってないよ。」
「いや違う!小銭があるさ。ほら、俺たちは路上の兄弟じゃないか。」
「ダメだよ。・・・今言ったとおりさ。・・・道々働いて行けばいいんだよ。」
 飢えが、恐ろしいほどの飢えが放浪者の腹を苦しめて異様な酔いのように身体じゅうをまわった。
「ちょっと聞いてくれ。お前さんの小銭を買い取ろう。払いは十分だ。・・・二十フランやるよ。」
 相手の男は大きく目を開いた。彼は早口に続けた。
「そうさ、二十フランだ。けさ土ぼこりの中から見つけたんだ。ところがどこに行っても受け取ってくれないんだ。俺があまりにも見すぼらしいからだろうよ。でも着てる服のせいだけじゃない。・・・ボロ服だが、そのうえ空腹だ。それで目つきがギラギラして人相が悪く見えるんだ。・・・それで皆こわがってね。それにお前さんのほうは少しましな服を着てる。リモージュの革コートだから牧羊者のような感じがするんだ。・・・二十フランを手にしていたところで驚くことはない。そのうえ恐らく俺よりも苦しんではいないだろう。・・・十分に食べて、・・・俺のほうはこの二日間・・・腹が減ってるんだ。・・・」
 彼はこの最後の言葉を小声で、顔を相手の息がかかるほどに近づけて、恥ずかしそうに、しかも凄みをつけて言った。
「この取引はいいだろ・・・金貨が贋物じゃないかと思ってるのか?じゃ、この音を聞いてみな。ほらね・・・小銭をよこしなよ。」
 しかし、男は差し出された金貨を押し返して身を離した。
「えぇ、自分の金は持ってなよ。俺よりも金持ちじゃないか!」
「わかってないな!俺には使えないんだ。・・・受け取りたくないというから・・・くれよ。」
「いやだ・・・いやだ・・・さよなら!」

 ある狂気が放浪者の頭をよぎった。盗みと殺しの激情で顎を引きつらせ、拳を握り締め、彼は荒々しく相手の喉を絞めて言った。
「よこしな・・・」
 男はもがいて、絞めつけから逃れようとした。腕を伸ばし、指を立ててほどこうとした。口を大きく開き、叫ぼうとした。目をむき出して必死になって身体を動かした。・・・彼は倒れた。・・・小銭が地面にころげた。
 殺した男は四つんばいになって手さぐりで小銭を拾い集め、数えもしないで走り出した。
 村の明かりが最初に見えたところで彼はあえぎながら立ち止まった。ルイ金貨を歯で噛んでいたのに気がついた。ポケットの中には小銭が入っているのがわかった。犯行の恐怖を目の前に感じた。・・・恐くなった。だが飢えで腹がきりきりと痛んだ。彼は金貨を取ると空中に放り投げた。
 それは枯葉の中で小さな震えのような、枯れ枝が落ちて苔の上ですべるような、音がした。・・・大股に歩いて彼は村に入った。
「四スーのパンをくれませんか。」
 パン屋の女は丸パンを取って彼に差し出した。彼は払った。砂ぼこりのザラザラした感覚で身震いした。
 しかしパンの表皮は黄金色でカリカリし、中身は白かった。彼はかぶりつき、ガツガツ食べながら千鳥足で店を出て、静かな夜の中に消えていった。時おり小枝が乾いた枯葉の上に落ちる音がした。ちょうど先ほど金貨が落ちるときに立てた音のように。(終)


(*) 一ルイ金貨 un louis de pièce d'or : ルイは昔の通貨の単位。当時の二十フランに相当。高額貨幣の扱いにくさから想像すると現在の五万円くらいか。



原題: Sur la route

短編集『地獄の扉』 Les Portes de l'enfer所収 (1910年刊)

作者: モーリス・ルヴェル Maurice Level

試訳: 写原祐二(2004年12月26日)


底本テキスト: Maurice Level《Les Portes de l'enfer》
Gallica, La Bibliothèque numérique, BNF #62652 ガリカ電子図書館

http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-62652

Editions du Monde illustré, Paris; 1910 モンド・イリュストレ版
Sur la route; P217〜227


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