小さな白い牝犬

作者匿名(Ch. N***, シャルル・ノディエ?)

 十七世紀の初め頃、ボンディの森(*)を東西の方向に通り抜ける街道わきに二本の大きな樫の木があったという。その一方の木の洞にはまばゆいばかりの白さのかわいい牝犬がいて、赤革の首輪には締具と金鋲があしらえてあった。
 この小さな動物はいつも眠っているように見え、通りかかった人がこのとてもかわいい犬を見かけて、森の中で迷子になったのだろうと思い、なでてあげようと近寄った時にしか目をさまさないようだった。しかし何か話しかけながら捕まえようとするのだが、まさに手中にしたと思った瞬間に身を起こして飛び出し、森の中に数歩入ってしまうのだった。追いかけずにあきらめると、犬はもとに戻って人を見つめながら尻尾を振るのだ。そしてもう一度人が近づこうとすると、それを待つような様子でじっとしているが、やがて最初のときと同じように逃げ出し、それから根気強く同じ場所に戻るのだった。何人かの人は無駄足を踏まされたことに腹を立て、小石を投げつけたりしたが、当たってもまるで身体が大理石で出来ているかのように感じない様子だった。狩猟番の鉄砲ですらも何発かの銃弾がまっすぐ命中したはずなのに傷を負わせることはなかった。ついには周囲ではこの小さな牝犬が、悪魔そのものでないとしても、少なくとも悪魔の手先だと言われるようになった。これから語る逸話も近隣にかつてないほど恐ろしいもので、国中にうわさが広まったものである。

 ある十歳の少年が両親に言われて森に焚き木を拾いに行かされた。家族が昼食を取る時間になっても帰って来なかったが、少年には森の中の東から西へ抜ける街道には行かないようにとよく言い聞かせていたので、しかもこの少年は親の言うことをとてもよく聞く子供だったので、ちょっとは心配したがそれぞれ仕事にもどったのだった。夕食の時間になっても彼は帰って来なかった。何か災難があったのではと疑い始めた。とうとう夜食の時間になっても子供が帰って来ないので、父親のジャン・フォルタンが妻に言った。
「かあさん、角灯に火を点けてくれ。子供たち、わしの連発銃と弾丸と火薬袋を持ってきてくれ。お前らの兄弟をさがしに行ってくる。もしわしがなかなか帰ってこなかったら先に休んでろ。わしは森中をくまなく探してセレスタンを連れ戻すまでは帰らぬつもりだ。」
 セレスタンとはいなくなった少年の名前である。
「父さん」と長男が言った。二十歳の大柄な青年である。「俺も一緒に行くよ。」
「勇気があるなら一緒に来い。」とフォルタンが答えた。「だが言っておくが、わしはまっすぐ二本の樫に行くつもりだ。」
「そこは考えないほうがいいよ、父さん。」とトマが答えた。
「それじゃ、行くかそれとも残るか。」フォルタンは続けた。「わしは悪魔のしわざを打ち壊すかあばき出す決心をしたんだ。セレスタンを見つけなくてはいけない。おそらくあの呪わしい牝犬のあとを追いかけて行ったにちがいない。いいとも!わしも追いかけてやろう。そいつが悪魔なら角を取ってやるか、それともやられるかだ。」
トマが言った。「出かけよう。」
家族は皆うち震えていて、誰ひとりその恐怖ゆえにこの大胆不敵な計画に反対する気力も考えもおそらく持たなかったのだ。

 そこで彼らは出発した。夜は深い闇に包まれていた。トマは角灯で照らしながら進んだが、ひっきりなしに木々にぶつかったり、茨の繁みに引っかかったり、抜け道を見つけたと思いながらもさっき歩いたところに戻ったりして、結局道に迷うことになった。それからやっと森の中の街道に出てかなり自由に進むことができた。
 彼らはセレスタンの声でも聞こえないかと耳を澄ましながらすでに一時間も歩いたが、何の物音もしなかった。例の樫の木さえも現れなかった。トマは父親に言った。
「樫の木はやり過ごしたんだと思うよ。」
 フォルタンが答えた。
「いや、わしは右も左も注意深く見守って来たからまだそこまで来てないんだ。」
「でも俺たちはすいぶん歩いたと思うよ。」
「元気を出せ。」と父親が続けた。・・・ 彼らはさらに三十分くらい歩いたが、二本の樫の木はまったく現れなかった。
 フォルタンが言った。「今度こそ確かに変だ。森の反対側まで来てもいいくらいなのに。普通ここを通り抜けるのに一時間十五分しかかからないのが、わしらはもうたっぷり一時間半は歩いているんだ。二本の樫の木は過ぎてしまったことになる。」
「もどろう。」とトマが言った。
「もどろう。」とフォルタンも言った。
 そのとき急に一陣の突風が吹いてきて彼らは帽子を飛ばされないように手で押さえた。木の枝をヒューヒュー鳴らすほどのすごい音を立てたので彼らは思わず目を上げた。
「あそこに樫の木がある。」とトマが全身を震わせながら言ったので、フォルタンは暗がりの中に二本の大木を認め、それがせいぜい二十歩くらいの距離にあるように見えた。
「トマ、行こう。今度はわしが先だ。」とフォルタンはあまり確信が持てないながらも力強い声で言った。言いながら彼は銃に弾を込め、まっすぐ大木に向かった。トマがそれに続いた。彼らはおよそ三百歩進んだ。ところが樫の木はすぐ近くだと思っていたのに前と変わらぬ距離に見えるのだ。彼らはさらに進んだ。しかし彼らが進むほどに大木は遠ざかり、森は果てしなく続くように思われた。

 フォルタンは道路わきの至るところからまるで森が蛇だらけになったようなシューシューいう音を聞いた。ときおり得体の知れないものが足の下をころがった。鉤爪が両脚にからみつこうとするのを感じたが、それはちょっとかする程度でしかなかった。ひどい悪臭があたりを取り巻き、彼の周りを飛び回るものがあったが何も感ずるものはなかった。くたびれきったのでちょっと腰を下ろそうと思い、彼はトマに声をかけようと振り向いた。そこにトマはいなかった。草薮を通して角灯の窓が見えるような気がした。息子の白いズボンの半分が見えた。彼が呼びかけると聞いたことのない声が答えた。
「おいで、待ってようか?」
 彼はためらいながらも前に進むと、灯りはすぐに消えてしまった。それからもっと離れたところに再び見えて、大声で呼んでいるのが聞こえた。
「こっちだ、おいで、待ってようか?」
 フォルタンはその声の聞き覚えがなかった。トマの声でもなく、セレスタンの声でもなかった。灯りはまったく消えてしまい、彼は自分が今どこにいるかがわからなくなった。来たところを後戻りしようと思ったが、街道はどうしても見つからなかった。全身から冷汗が流れた。空を舞う物体がひっきりなしに彼の顔の前や身体の周囲を飛びまわった。彼の目にはまったく見えなかったが、ひどい臭気の燃えるような息吹きを感じた。彼の頭上で異様な大翼を広げた鳥のようなものが羽ばたいたように冷たい風を受け、彼はこの森に入り込んだことを後悔し始めた。勇気を喪失し、銃は手から落とした。疲労からか、寒気からか、彼はそばにあった一本の木に身を寄せた。この恐怖のさなか、彼は自分の魂を神に託し、信心深く常に身につけていた十字架をポケットから取り出した。だが彼は力尽き、根元に膝をついて倒れ、まもなく意識を失ってしまったのだった。・・・

 彼が意識を回復したときは日が高く上っていた。日差しで身体が温められたのが力を取り戻す助けとなったようだ。フォルタンは周囲を見回した。武器が壊されていて、あたかも鋭い歯で噛み砕かれたようだった。金具の部分は炎で焼かれたようで、木々は血に染まり、不思議な恐ろしい文様が押しつけられていた。枝々はへし折られ、木の葉は黒ずんで干からびていた。草は踏みにじられ、衣服の切れ端が散らばっていた。フォルタンは二人の不運な息子たちの姿を見つけた。もし彼が神のしるしを持っていなかったらこうなったに違いないのだ。彼だけが悪魔の手から救われたのだった。
 彼は恐ろしくなって立ち上がり、狂ったように走って家に帰った。出来事が一部始終語られ、それを確かめるために武器をたずさえた兵士たちと役人が現場をおとずれ、フォルタンの話が本当であることを認めた。人々は悪魔の一群が饗宴を開き、遊興にふけったあらゆる痕跡を見出した。さらに調査したいと思ったところ、例の小さな白い牝犬が現れ、同時に人々は恐怖で凍りついた。この場所は悪魔の住むところで、いかなる攻撃にもびくともしない方策を備えていると考えざるを得なかった。人々は周辺に十字架を立て、そのしるしによって悪魔の領域が広がらないようにと願った。それ以来、森の他の場所でこうした出来事が起きたという話は聞かなくなった。しかしながらその境界をあえて踏みにじる者がいれば不幸と言うしかない。(終)


(*) ボンディの森La forêt de Bondy:パリの北東10 kmほどにあるボンディの村一帯に広がる森。地名はローマ帝国領の時代に遡る。広大な森林と沼地からなり、狩猟地としても知られた。現在はパリ首都圏の外縁部として都市化が進み、森はレクリエーション基地として親しまれている。地図では小規模ながら森を東西に抜ける道の名残が認められる。

* Carte routière et touristique Michelin : #196 Environns de Paris
ミシュラン道路地図#196, パリ周辺部より


原題: La petite chienne blanche
短編集『地獄奇譚』Infernaliana 所収 (1822年刊)
作者: 匿名 Ch.*** (Charles Nodier?)
試訳: 写原祐二(2005年2月13日)
底本テキスト : Ch. *** : Infernaliana ; Sanson & Nadaud, Paris, 1822
BNF Gallica #62056
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-62056
La petite chienne blanche; P152〜162


仏和翻訳習作館 忘却作家メモ:ノディエ

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