グノー作曲:歌劇「ファウスト」挿絵より

悪魔との契約書

作者匿名(Ch. N***, シャルル・ノディエ?)

T.旅の男の話

 私は生まれながら野心が旺盛で、乱暴でこらえ性がなく、ちょっとでも思い通りに行かないことがあると我を忘れてしまい、不運に見舞われでもすれば狂暴になってしまうのだ。

 ある夜のこと、野心に満ちた期待が挫かれた私は悪態をついて声高に叫んだ。
「そうとも! 地獄の悪霊がいるものなら現れよ。どんな姿でもいいからここに来て告げるがいい。復讐をしてくれるならばこの身を与えてもいいぞ。」
この言葉が口から出てしまわないうちに私は燃えるような熱さを感じた。部屋の中にあった温度計がたちまち四十八度まで上昇し、さまざまな色の炎が家じゅうに満ちて、熱風が呼吸をさえぎり、ついにはほとんど窒息しそうになった。

 私はこの兆候にこわくなり、果たして悪魔が目の前に現れるなどということがあるのだろうかと自問すると、たちまち恐ろしい妖怪が近づいてきて言った。
「何の用だ? 話せ。」
 私はこのおぞましい姿にどうしていいかわからなかった。そいつは身体じゅうの穴から炎を吐き出し、その醜悪な姿に巻きついた蛇たちがあらゆる方向に頭をもたげてうごめいていた。その怪物は乱暴につけ加えた。
「早く答えろ。時間がもったいないぞ。他の奴らが待っているんだ。金が欲しいか?ほらここにあるぞ。復讐したいのか?よろしい復讐してやろう。政治家でも、文豪でも、軍人でも、なりたいのなら望みをかなえてやろう。俺は恩恵や名声をもたらす者だ。・・・さあ選べ。」

 私はそれでもどんな条件でそうなるのか、とたずねる気力があった。
「おまえにはあと四十年の人生を認めてやる。そのあいだは何でもおまえの望むことができるだろう。だがその期限が来れば、おまえは俺のものとなるのだ。つまり、おまえが生きている限りは俺がおまえの奴隷であり、おまえの死後は俺の奴隷になるのだ。この条件に同意できるかどうか考えてみろ、よければ契約書に署名を取り交わすことにしよう。さもなければもうこの話はするまい。それでは。」
 一つの犯罪はさらに新たな犯罪を導く。あぁ!皆さんに白状するが、私はこの卑しむべき契約書にサインしてしまうような弱い人間だったのだ。

(馬車に乗りあわせていた我々は身震いした。)

 契約書にサインを終えると悪魔は私に言った。
「ご主人様、私があなたの奴隷でございます。お申し付けください。ご用のせつはいつでもおみ足で地面をたたいてください。すぐさまあなた様の命令に従います。」
「そう言うからには、姿を変えてもっと見栄えのいい格好をしてくれないか。」
そう言い終わらないうちに、目の前に若くて美しい男が立っていていた。
「これでご満足でしょうか。」
「よろしい。でも今は金がほしいんだ。」
すると金庫がベッドの足もとに置かれていた。
「じつは私はある政治家を殺してやりたいほど憎んでいて、奴に復讐したいと思っているんだ。」
「では明日の朝彼の失脚が発表されて、あんたがその後任になればいいんでしょ?」
「その通り。今のところはそれで十分だ。引き下がっていいぞ。これで安眠できるだろう。」
今は私の奴隷で未来には私の主人となる者は引き下がり、私はこの上もなく満ち足りて休むことが出来たのだった。

 翌朝、急ぎの知らせによって私は目覚めた。それは私の仇敵が失墜したという公告と、私がその後任となる朗報であった。私はその新しい地位に駆けつける、と言うよりはむしろ飛んで行った。何と言ったらいいのか、つまりあらゆることは私の願望に従って実現された。政治家として、軍人として、詩人として名声をかち得た。世界的な名声とも言えただろう。しかしながら人間の本性には首尾一貫したところがないもので、かくも甘美な幸福を享受するのにとどまらず、私の野望は桂冠や栄誉のさらに上に君臨し、飽き飽きさせ、不満をつのらせたのだ。私はそのことを悪魔に話してみたが、何でも願いを実行するだけの彼は怒り出し、どんな人間でも私ほど多くの恩恵を受けた者はこれまで誰もいなかったし、私の能力はほとんど神に近いまでになっていると答え、恩知らずにさせてしまったのではと気に病んだ。私は大いに怒って契約書を取り出し、お前は私に服従することをありがたく思うくらいの卑しい奴隷にすぎず、その証しとして私は造物主と同じくらいになって、みずからも創造したいのだと反論した。

「そうしたお望みが来るだろうと思ってましたよ。お前さんの希望はかなえてあげましょう。そうでないとわしらの契約は破棄されてしまいますからね。とにかくあんたは非常識な人だ。」
 私は彼を黙らせると、完璧なほど美しい蝋人形を引っぱりだして、それに生命を吹き込んで素晴らしい女性とするように命じた。
「やれやれ!やりますよ。」

 するとこの世でかつてなかったほど美しい女性が私の目の前に立っていたのだ。悪魔は言った。
「もう失礼しますよ。あんたは不幸を望んだんだ。俺のあらゆる力をもってしてももはやそれを食い止めることはできん。それではご免。」

 悪魔が立ち去るや否や、私は自分の造り出した女性に対する激しい愛欲の中に身を投じた。そして彼女を妻とすることにした。私は幸福を見出したと思ったのだが、驚くべきことに、この女は美しければ美しいほどその心はますます恐ろしいものになった。過ちから過ちへ、犯罪から犯罪へと私を導いたのだ。彼女と一緒にいると、あらゆる人間は首をちょん切るべきだと思うまでになった。悪魔の威力というものが私のために造り出してくれた女性によって割り引かれていなかったら、世界の半分は命を失っていただろうと告白せざるを得ない。だがすでに言ったように、もはや悪魔は私の欲求のことごとくを受け入れることはできないのだ。私の欲望のすべて、つまり悪魔の欲望は、結局、善なるものに突き当たらざるを得ない。その理由をたずねると悪魔は天国の力によって妨げられるからだと答えた。

 そうしていても私の造った女が私を苦しめるさなかに運命の期限は近づいていた。いずれは主人となる私の奴隷がそのことを知らせに現れた。
「からかうんじゃない。まだ二十年しか経ってないじゃないか。まだ期限は来ていないぞ。」
「あんたは二十年と数えているだろうが、地獄では二重に数えるのだ。二十年の昼と二十年の夜、それでちょうど四十年になる。それがあんたに認めた時間なのだ。」
 私は思わず叫んだ。激怒した。だが何をしようと何にもならなかった。あさってには首を絞められる覚悟をしなければならなかったのだ。
 
 人間はその立場がどうであろうとも好んで死にたいとは思わない。とりわけ悪魔の爪牙(そうが)のもとに倒れ伏さねばならないのであれば。それは決して甘美なものではないのは確かだし、考えてみても生やさしくはなかった。
 
 悲しい物思いにふけりながらその日の朝、私は外出するとごく無意識に教会のほうに向かった。大扉の敷居に足を掛けようとしたときに悪魔は私をさえぎった。私は彼に言った。
「引き下がれ、卑しい奴隷め。明日までは私に何をする権利もないのだぞ。」
 悪魔は身を引いて私を脅かすにとどまった。すぐさま私は聖なる場所にかけ込んで、面識のあった尊敬すべき司祭に会見を求め、私の犯した罪のすべてを告解した。
「そのことはよく知っていましたよ。あなたを救うつもりでいます。」
と彼は答え、教会のすべての扉を閉め切り、あるだけの灯明を集めさせた。そして悪魔払いを執り行い、私に聖水をふりかけ、尊いアーメンを唱えさせ、一言で言うと私を清めてくれた。

 この儀式のあいだ悪魔はおぞましい怒号をあげ続け、何度か私を掴みあげようとしたが、それを防ぐために護身用の十字架を持たせてもらった。堂内にはうなり声が響きわたり、息づまるような悪臭に満たされて、あまたの妖霊たちが現れた。それでも悪霊たちを退散させることができたのは聖水の威力のおかげであった。攻撃が途絶えて私が神の恩寵のもとにあるのを見て、司祭たちは私の屋敷にも同じ悪魔払いの儀式をしようと向かった。しかしそこでは司祭自身さえも彼らの魔力の犠牲になりそうになった。というのも悪魔たちは教会の中とは違って勢力を削がれることなく、あらゆる悪の力を思うままにふるうことができたのだった。司祭たちの一人などは喉をしめつけられ、大変な苦闘の末にのがれ得たのだ。屋敷は地獄のあらゆる悪魔たちに洗いざらい汚された。私が帰ってみると、そこには家令たちも私の妻も誰もいなかった。すべては逃げ出してしまったか、あるいは地獄に呑み込まれてしまったのだ。
 
 その時から私は寂しく暮らしている。とにかく私に対して課された戒律に背くくらいなら死んでしまいたいとも思っている。そしていつもこの聖像を身につけていなければならないのだ。


U.貴婦人の城での怪異

 そう語ると、彼は聖母の絵姿を我々に見せてくれた。だが驚いたことに、そして恐るべきことに、旅の仲間の一人が怒りの形相で話を終えた当人に飛びかかり、恐ろしいうなり声をあげながら首を絞めようとしたのだ。
 それでも旅の男はその聖像で防戦し、我々全員が目の当たりにしたのはその聖像が触れるたびごとに悪魔は激怒しつつも後ずさりしたことだ。
この争いはかなりの時間にわたったが、そこに天から何かが落雷のように降ってきたのが見えた。戦う男は叫んだ。
「神だ!愚か者め、私は救われたぞ。立ち去れ!地獄の悪魔は立ち去れ!救いの神がここに来たのだ。」
それと同時に一人の天使が馬車の客室に入りこんできて、悪魔に向かって言った。

「おまえはこの聖なる御姿に汚れた手で触れようとするのか?いかなる場所でもこの御姿をうらやまなければならぬのを忘れたのか?暗闇の魂よ!地中の奥深くにもどるがいい。そこが造物主たる神がおまえに与えた永久の住みかなのだ。」
 この言葉とともに天使は悪魔を掴み上げ力いっぱい地面に投げると、そこに裂け目が開いて悪魔を飲み込んでしまった。

 その恐怖の念がおさまらぬうちに我々は貴婦人の城に到着した。すでに夜の八時になっていて成り行くままに我々は馬車から降り立った。執事が身を震わせながらやってきて戸を開けてくれた。聞いてみると、夜中に彼らを苦しめにやってくる亡霊の一隊ではないかと思ったのだそうだ。彼は我々を大広間に案内し夜食を出してくれ、そのまま我々は亡霊たちの出現を待ち構えることにした。

 真夜中ごろ、壁に一つの影が現れたのに気づいた。我々のほうに近づいてきても明かりで消えることはなかった。むしろいろいろな形に変わった。そのすぐあとに影はたくさんの数になり、部屋の中を方々に動きまわって、そのときまでは我々も笑っていた。だがやや不安にとらわれたのは、大広間の扉がいきなり大きく開いてひとりの女が入ってきて、我々にこう言ったときである。
「愚かな人間どもよ。何の因果でここに来たのだ?早く逃げ去れ。さもなくば我が恨みが及ぼうぞ。」

 我々は互いに顔を見合わせ、旅の男は聖像を強く握りしめた。城の女主人も十字を切り、他の者たちは祈祷をとなえた。つまり各々が手一杯でいたのだが、私だけは面白がって話しかけた。
「おまえが何者であろうともおどかしにはならないぞ。亡霊か悪魔か、あるいは望む通りの姿になれるとしても大したことではない。おまえの力に挑戦してやるぞ。」
 そして私は何歩か進んでその影に近づき、手を伸ばして捕らえようとしたが消えうせてしまった。そのかわりに見るも忌まわしい怪物が現れたのだ。それでも私は少しも恐れずに体当たりをして押し倒そうとした。だがこの恐るべき妖怪には身体じゅう棘が付いていたので思わず退いてしまった。無駄とは知りながらも私は武器を取った。弾丸も鉄剣も奴には何にもならなかった。

 我々がこうした異常事態に陥っていたとき、恐ろしい雷鳴がとどろき、城全体が火に包まれたように思えた。濃い煙で息ができなくなり、ほとんど互いが見えなくなってしまった。たくさんの巨大な影が四方八方に行ったり来たりして、そのうちのいくつかが我々に近寄っては脅かした。だがいちばん執拗に迫られたのは契約書に署名した旅の男であり、恐怖に身をすくめたはずみに聖像を落としてしまい、その瞬間に悪魔たちは男を捕まえ、首を絞めあげたのだ。我々は何の助けもできないままに男が息絶えるのを見た。だが荒れ狂う海の波のような猛烈な声が聞こえたとき、その意味がわかった。
「信仰なき者、おまえはわしのものだ。おまえを得るためにわしは多くの力を尽くしたのだ。おまえが誓約を無視し契約を踏みにじっても、しまいにわしの威力のもとに屈したというこの話を知って、世の契約不履行者たちは身を縮まらせることだろう。」

 この言葉が終わるや否や、城の建物が崩壊するのが見え、我々は意識を失った。気を取りもどしたときには我々は荒れ野の真っ只中にいて、力が弱って立つこともできなかった。もうこのような冒険は二度と御免だと心に決め、やっとのことで近くの村までたどり着いた。しかしながら我々はミサを執り行って、できることなら悪魔の爪牙の餌食となったかわいそうな男の魂が取りもどせればと願った。そうしてよかったと思われるのは、その後、彼が雪のような白衣をまとって聖像を手に現われ、自分のために祈祷してくれたことに感謝していたからである。


原題: Le pacte infernal (petit roman)
短編集『地獄奇譚』Infernaliana 所収 (1822年刊)

試訳:写原祐二(2004年5月5〜16日)


仏和翻訳習作館 忘却作家メモ:ノディエ

inserted by FC2 system